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【書籍】「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んでみた

こんにちはgrandstreamです。

今回は、読書まとめ的なことをやってみようと思います。

今回紹介するのは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(略してプロ倫)」です。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーによって今から100年以上前に著された、「近代資本主義の成立と禁欲的プロテスタントの倫理観との関係」について論じた名著です。

資本主義が世の中を席巻している今、その由来はどこにあるんだろうと疑問に思い、読んでみる事にしました。

で、せっかくなのでここでアウトプットさせて頂きます。

簡単にいうと

僕なりの解釈でまとめると、

「自分の仕事を天職と思って、享楽をせず、禁欲的にひたむきに仕事に励むこと」が神の栄光を増し、神に救われているんだという確信を得られることにつながる、というプロテスタントの考え方が近代資本主義の精神の根底にあったというものです。

今でこそ、もっとお金を稼ぎたい!という金銭欲や贅沢欲、それから人の役に立ちたい!とかいう欲が現在の資本主義の原動力の根元にあり(個人的見解)、そこに宗教的原動力は見出せないのですが、近代資本主義勃興期はこのように宗教的な価値観と密接に結びついていたんですね。

もうちょっと詳しく

予定説について

先ほど、禁欲的に労働に励むことが「神に救われているという確信につながる」と書きましたが、これは「予定説」という考え方に基づいているようです。

「予定説」というのは神がこの世の運命をすでに決定している、という考え方です。

つまり、神の恩恵が得られる(救われる)人とそうでない人もあらかじめ決まっているわけです。

信徒からすれば、「自分は救われている側の人間なんだろうか?」ということをどうしても知りたいと思います。

そこで、「神に救われているという確信度を高める方法」として、職業的労働をひたむきに行うことが考えられたというわけです。

なんで職業的労働が「確信度」を高めることにつながるのか?

とても概念的な話ですが、プロテスタンティズムの中でもカルヴィニズムという宗派(?)では、「自分は神の道具」と感じるのだといいます。

つまり自分たちの「行為」が神の恩恵による働きから生まれるのだそう。。

「善い行いをしている」ということは、神の恩恵が自分に働きかけている証拠になります。

特にカルヴィニズムが求めたのは、「日常生活の中での一貫した禁欲的な生活態度」のようです。

この「日常生活の中での一貫した禁欲的な生活態度」を実行するのにうってつけだったのが、「労働」だったということです。

こういうわけで、禁欲的に労働に励むことで、「神の恩恵が得られているという確信」につながるんですね。

利潤の追求を合法化した!

とはいえ、単に黙々と働いているだけでは、資本主義は発達していきません。

同じくプロテスタントのピューリタニズムという派閥では、「より稼げるチャンスがあるのであれば、それは神が与えてくれた機会なのだから、より稼げる仕事を選ばないといけない」という考え方になります。

これは特に実業家からするとありがたい話です。

お金をたくさん稼ぐことが合法化され、神の意思に沿うものと考えられたのです。

どんどんたまるお金、、ところが。。

禁欲的に、利潤を追求しながら労働をすれば、必然的にお金はどんどんたまっていきます。

お金がどんどんたまるとどんな問題が起きるか、、どんどんと現世への愛着がましてしまい、もはやそこには宗教的な考え方がほとんどなくなってしまうという「悲劇」が起きてしまいます。

「今幸福ならそれでいい!」と思えてきてしまうということでしょうかね?

もう「神に救われてる」とか、「恩恵が与えられてる」とかそんなことは考えなくなってしまうという結果に陥るのです。。

まとめ

めちゃくちゃざっくりですが、近代資本主義の根っこにはどんな考え方があったか、をプロ倫に基づいて紹介させて頂きました。

当初は、神の恩恵を得るためにひたむきに労働に励んでいたのが、今やその宗教基盤はもはや必要なくて、「お金稼げればOK!」という功利主義に変化したというわけですね。。僕の解釈が合ってればですが。

しかし、昔の人はのんびーり競争なんてせずに暮らしていたのが、ひとたび資本主義が動き出してしまうと、もはや後戻りできないんですよね。

というのも、みんなが競争している中で自分だけ競争に参加しなかったら、(相対的に)より貧しくなってしまいますからね。

そんなわけで、果たして資本主義に限界はあるんだろうか、、ということを考えている今日この頃です。

今回はこんな感じで終わります。

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